御 山 案 内 |
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蓮如上人が愛でられた眺望:蓮如上人は寺務で疲れると、ここからの景色をよく眺望されたと伝えられている。朝夕四季おりおり衣替えする鹿島の森、湖面にうつすその容姿、松影の内に点在する浜坂浦、竹ノ浦、立ち昇る炊煙、湖面をいきかう漁船、日本海の荒波、打ちかえす波音をこよなく愛したと伝えられている。
「鹿島山 とまり鴉の声きけば
今日も暮れぬと 告げわたるなり」
「浜坂の 山のあなたにうつ波も
夢おどろかす 法の音かな」
蓮如上人の歌として、このようなものが伝えられている。
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蓮如上人お腰掛けの石:この石は蓮如上人御在世の当時から吉崎御坊の中にあったもので文明六年(一四七四)の「吉崎山絵地図」の中に描かれているのは、この石であろうといわれている。その古絵図は蓮如上人が二人のお弟子を伴い本坊の後の石に腰をかけて、対岸の鹿島や浜坂あたりの景色をご覧になっているところである。
それから五百余年の月日が流れた今もこの石を見て、蓮如上人の御徳をお慕いする信者が絶えない。
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蓮如上人の銅像:この銅像は東京美術学校教授帝室技術員高村光雲氏(一八五二〜一九三四)の作で、亀山上皇・大楠公・大西郷の銅像と共に光雲四大作の一つに数えられている。銅像の高さ五メートル、御影石の台座約七メートル。昭和九年十月完成し、光暢上人が導師となって除幕式が行われた。
「御在世のひびの御足を偲び泣く」 句仏上人
銅像建設の発起者は丸岡町の酒井正造 笹野伊佐吉 吉崎の☆丸勇の諸氏で今上天皇御即位の大典を記念して越前、加賀等各地の信者から多くの浄財を得て建設された。その時、東西両別院の防火用貯水池も寄進された。 |
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加賀千代女「すみれ草」の句碑:
うつむいた 処(とこ)が臺(うてな)や
菫草(すみれぐさ)
この句碑は昭和八年蓮如上人銅像建立のとき建てられた。千代は加賀松任の生まれで増谷六兵衛の娘、加賀前田藩足軽福岡弥八に嫁いだが、早く夫や子に死別した。幼少の頃より俳句を好み、各務支考にみいだされその名が知られ、のち、美濃派の俳人廬元坊や乙由とも親交があった。千代は浄土真宗の信者であり、宝暦十二年(1762)千代尼六十才の紀行文の中に、「やよいはつかあまり、よし崎まふでせむと旅立ちけるに・・・けふというけふはじめてよし崎にまふでける。その嬉しさありがたさのあまり・・・」と題して記され山上ですみれの花を見、浄土の花の臺を思いこの句を残したのだろう。 |
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蓮如上人お手植のお花松:この古い幹の株は蓮如上人が吉崎に御坊を建てられたとき、御自分で植えられた松の木の根もとであると伝えられている。天保九年(一八三六)の夏の初め広如上人(明治四年没)が江戸へ行かれる途中吉崎でお泊まりになり、「吉崎の遺跡を拝して」と題して 「花松のみあとを訪へば十かへりの 春にもあへる心地こそすれ」 と詠まれたのは、このお手植の松であった。その後、元のお花松が枯れたので代替の若松を植えた。それが成長して今のお花松になった。
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本光坊了顕のお墓:吉崎御山にあった多屋九房の一つに本向寺(足羽郡市波元の寿号本光寺)の坊舎があった。了顕が蓮如上人につかえていると文明六年三月二十八日夕方南大門附近の多屋から出火して吉崎御坊は猛火に包まれた。上人は親鸞聖人御真筆の教行信証六巻の中信の巻を机の上に置いたまま持ち出せなかった。これを知った了顕(三十九才)は猛火の中へ飛びは入り聖教を抱えたまま壮烈な殉教の死を遂げたと伝えられる。
京都西本願寺所蔵の教行信証信の巻は「腹ごもりの聖教」とも呼ばれ昭和五十年六月重要文化財に指定された。
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見玉尼のお墓:見玉尼は蓮如上人の第二女で母は伊勢氏平貞房の娘如了。文安五年(1448)の生まれ、七才で母を失い禅寺へかっ食(しき)にやられ、後、京都吉田の浄土宗攝受庵見秀尼の弟子となった。文明二・三年と続いて伯母と姉を失い三年の五月父蓮如上人を慕って吉崎へ来られた。間もなく病にかかり八月十四日二十六才の若さで没した。その間に吉崎御坊の完成を見て真宗の安心(あんじん)を得て往生した。上人は御文の中に「八月十五日の荼毘の暁方の夢に白骨の中から金仏が現れ蝶になって涅槃の都へ飛んでゆくのが見えた」と記されている。 |
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吉崎御坊の本堂跡:文明三年五月吉崎へ下向された蓮如上人はこの御山の地形が大変よいとして原始林を伐り開き整地をして、七月二十七日から門徒衆の働きかけにより、かたのごとく御坊を建立し諸国から集まる多くの門徒に真宗の御法をおときになった。照西寺(滋賀県多賀町)の古絵図によると本堂は南面し柱間五間四面 正面中央に向拝があって、中に御本尊と親鸞上人の御影を安置し本堂の西側に庫裏と書院があった。吉崎御坊は文明六年(一四七四)三月二十八日火難にあい、その後再建したが翌年八月二十一日再び戦国の動乱で焼失し、上人は四年余りで吉崎を退出された。その後、永正二年(一五〇六)三度火災にかかり御坊跡は荒廃のままとなった。 |